昨日のブログは、
6/4🧭5月の重要論点を総括、その先へ:表層的な分析が通用しない理由
と題してお送りさせていただきました。
📝深層解析対談・日程変更のお知らせ(収録予定のご案内)
今週予定しておりました「プレミアム音声・深層解析対談」は、当初予定していた本日、木曜日の収録を中止し、金曜日に変更の方向で調整中です。楽しみにされていた皆さまにはご迷惑をおかけし恐縮ですが、何卒ご了承いただけますと幸いです。
収録が完了次第、あらためてホームページからの投稿にてご案内いたします。
よろしくお願い致します。
ハドソン・パートナーズ・クラブ公式サイト・「洞察・実践の広場」から抜粋。
“The fundamental cause of trouble in the world is that the stupid are cocksure while the intelligent are full of doubt.”
— Bertrand Russell, The Triumph of Stupidity (1933)この世界における最大の問題のひとつは、愚かな人間ほど確信に満ち、思慮深い人ほど自らを疑うという逆説にある。
この文は1933年にラッセルが書いたエッセイ The Triumph of Stupidity(愚かさの勝利) の中で述べたものとされています(出典によって表記が多少異なることもありますが、主旨は一貫しています)。彼は20世紀を代表するイギリスの哲学者・論理学者・数学者であり、鋭い知性と人道的視点を併せ持った人物です。
※この引用は、断定や思考停止に対する警鐘として、世界で多くの知識人に読み継がれてきたものです。
彼が発したこの一文は、「確信に満ちた声」が必ずしも真理を語っているわけではないという警告であり、同時に、「自らを疑う知性」こそが、健全な社会に不可欠であることを教えてくれます。自らを疑う知性とは、答えを急がず、問いの質を高める姿勢にほかなりません。
「答え」を求める前に、「問い」を深めるという選択
プロフェッショナルの世界では、時に“考えるより先に動け”という判断が求められることがあります。経験と直感に裏打ちされた即断即決。しかし、それでもなお、そこには必ず戦略化された計画が存在します。単なる勢いではなく、思考と構想を経た行動です。そしてその過程では、「単なる知りたい」という情報受容の姿勢と、「ともに考えたい」という探究の姿勢との違いが、如実に現れます。
実行の前には、問いがある。問いの背後には、構造や背景を読み解こうとする戦略的営みがあります。ここではまさに、「知りたい」と「ともに考えたい」が交差し、そして分かれていくのです。
■「単なる知りたい」と「ともに考えたい」の論理的な違い
「単なる『知りたい』」という姿勢と、「ともに考えたい」という姿勢のあいだには、本質的かつ構造的な違いがあります。それは、情報への向き合い方、思考の深度、そして成果の質において、まったく異なる次元に属しています。
以下、その違いを順を追って述べます。(公式サイト・ハドソンボイス:「あなたにとって、情報とは何ですか?」という欄などもご参照ください)
- 受動的な情報取得と能動的な思考探究の違い
まず、「知りたい」という欲求は、外部にある“正解”を受け取ることを前提とした受動的な姿勢です。この姿勢では、情報を「与えられるもの」として捉え、その意味や背景にまでは深く立ち入らないことが多くあります。
一方、「ともに考えたい」という姿勢は、情報や意見を出発点として、自ら問いを立て、能動的に思考を深めていこうとする態度です。答えを探すのではなく、問いを育て、解釈を試み、他者と視点を交わすプロセスそのものに価値を見出します。ここでは、思考は一方通行ではなく、双方向であり、つねに動的です。
- 知識の収集と知恵の創造の違い
「知りたい」という行動は、知識を“集める”ことを目的としています。つまり、それはインプット中心の営みであり、収集された知識はときに断片的で、行動や判断にまではつながらないこともあります。
これに対して「ともに考えたい」は、知識を素材として用いながら、それを解釈し、文脈に当てはめ、現実にどう活かすかを考えるという、知恵の創造的なプロセスに踏み込みます。これは単なるインプットではなく、アウトプットや応用を前提とした知的行為です。得られる成果も一時的な理解にとどまらず、継続的な思考力・判断力の養成につながります。
- 個の理解と共同の探求の違い
さらに大きな違いは、知の営みが個人的な理解で完結するか、それとも他者との対話を通じて深化されるか、という点です。
「知りたい」という姿勢は、基本的に一方向的な知識の受け取りです。そこには、他者との関係性や対話的な広がりはほとんどありません。
一方で、「ともに考えたい」は、対話や共有を前提とした知の共同作業です。他者の異なる視点に触れ、そこから自分の視点を見直し、思考を磨いていく。このように、知の往復運動を通じて生まれる深みこそが、「ともに考えたい」がもたらす真の価値です。
- 「入口」と「旅路」という構造的違い
こうした違いを総合すれば、「知りたい」は、情報へのアクセスという意味での入口的な行為にとどまります。一時的な興味や課題意識に基づいて情報を集め、それで終わってしまうことが多いのです。
一方、「ともに考えたい」は、情報の先にある世界、すなわち、思考の旅路そのものに足を踏み入れようとする意志を伴います。そこでは問いが問いを呼び、答えの背後にある構造や因果を探ることで、自分自身の視座も少しずつ変化していきます。その営みのなかで、行動の質もまた変わります。
「単なる知りたい」という姿勢は、情報の消費にとどまりがちであり、それ自体は否定されるべきものではありませんが、思考や行動の変化には直結しにくい傾向があります。
対して「ともに考えたい」という姿勢は、情報を起点として、問い、考え、対話し、最終的には行動に結びつけるという循環と深化を志向するものであり、その成熟度は格段に高いといえます。
こうした話をあえて述べるのは、就職面接であれ、企業の戦略会議であれ、あるいは国際フォーラム、ウォール街の著名ストラテジストを招いてのセミナーのような場であれ、「正解の有無」よりも「問いを立てる力」のほうが、はるかに深く評価されている瞬間を、私たちが幾度となく目の当たりにしてきたからです。
♦“That’s a great question.”
「それはとても鋭い質問ですね」/「本質を突いた良い質問ですね」
- 単なる「いい質問ですね」ではなく、問いそのものに価値がある/考えさせられる/議論が深まるという含意があります。
- 丁寧に聞こえますが、相手の洞察や関心の深さを評価していることが含まれています。
♦“That’s a stupid question.”
「その質問は見当違いですね」/「ちょっと的外れな質問ですね」/(やや強めなら)「そんなの聞くまでもないですよ」
- ストレートに訳すと「ばかな質問だ」ですが、場面によっては冷笑・呆れ・苛立ち・軽蔑などのニュアンスを帯びる非常に強い表現です。
——実際に口に出されることがあるかないかは別として、心の中でこうした評価が行われている場面を、皆さんも記憶のどこかにお持ちなのではないでしょうか。
グローバルなステージにおいては、こうした「問いを立てる力」こそが、その人の視座や思考の質を映し出す決定的な要素として見なされる傾向があります。つまり、何を知っているか以上に、何を問うかが、その人の洞察力と成熟を物語るのです。
にもかかわらず、「こんなことも知っている」「あんなことも聞いたことがある」と、まるで知識の陳列棚を開いては次々と商品を並べるような振る舞いに出会うと、つい思ってしまうのです——それはそれで結構ですが、問いも背景もなく、ただ棚に並べられた知識には、どこか痛々しさすら漂うものです。
もっとも、私たちにはなんら全く関係のない話ではありますが……問いを持たない知識にどれほどの意味があるのか、どこまで人の思考や行動を変えうるのか、少しばかり心配にはなりますね。
ハドソン・パートナーズ・クラブが扉を開いているのは、まさにこの「ともに考えたい」と願う皆さまに向けてです。そうした皆さまとともに、私たちもまた学び、考え、問い続けていきたいと考えております。だからこそ、私たちはそうした皆さまを心から歓迎いたします。
さて、本日は、この先のアメリカ(米国)株式市場を見て行くにあたって、その背景として、本質的な2つのシナリオをわかりやすくこの後ご提示させていただきます。
本日は、この2つのシナリオだけにフォーカスして述べています。シナリオの中にある、ひとつひとつの要因を再認識しておくことにこそ、ここでのポイントがございます。
プレミアム会員の皆さまにおかれましては、本内容をご覧いただくことで、これに関連する市場をめぐる断片的なニュース、表層的な解説、コメント、あるいは単なる情報の羅列に振り回されたり、むやみに反応することなく、「ああ、これはあのシナリオのこの要因だな」「これはあの整理項目に該当するな」と、静かに、冷静に、そして落ち着いてご判断いただく一助となるよう、構成しております。
そして何より、これは現在の市場環境を読み解くうえで、核心に近いテーマです。ここを見誤れば、あとの判断すべてがズレてしまう——そうした類いの“極めて本質的な論点”です。ぜひ、丁寧にご覧いただければと思います。
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